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銀座時空散歩

ミキモトと志摩の真珠 その2

2016.11.18

文/寺尾 紗穂

写真/大森 克己

鳥羽市立図書館に参考になりそうな文献の調査を依頼する電話をしてから、ネットで真珠養殖に関わった海女のことを調べていると、海女文化資料館なる場所が南鳥羽の相差という場所にあることが分かった。この近辺なら真珠養殖をやっていた海女さんがいるかもしれない。さっそく電話してみると、「真珠やってた人はこのあたりはいないです、的矢湾の方いったらまだいると思います。鳥羽磯部漁協の畔蛸支所で聞いてみてください」と親切に教えてもらえた。畔蛸支所に電話をして、

「真珠養殖をやっていた海女さんでお元気な方がいたらお話をうかがいたいのですが」と聞いてみると、

「海女さんてのは、潜ってあわびとかウニとかとる人のこと、真珠の養殖のは違うよ」

との返事が返ってきた。では真珠養殖で働く海女の場合は何というのかと尋ねると「作業員」との答えが返ってきた。何ともそっけない響きだが、先方の言い方もなるほどある程度的確なように思われた。つまり、海女さんが集められはしたが、1923年頃からは潜って一つ一つ貝をとる養殖法は変わり、養殖筏置へと切り替えられていったのだ。海女さんは潜るのではなく、貝の掃除や核入れと言われる作業を陸ですることになった。

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鳥羽で合流した写真の大森克己さん、編集のIさんと車で向かった畔蛸支所は小さな平屋だった。受け付けの女性に言われて少し待つと、電話に出てくれた壮年の男性が現れ、

「じゃ、行こか」

と外へ向かう。名前を尋ねると、

「名乗るほどの者じゃない、遠山の金さんよ」

と笑って、小回りの利く白い軽トラで、細い道をとっとこ軽快に走ってゆく。運転の大森さんが懸命に後を追いかけ、5分もゆくと細長い入り江のような湾に出た。この辺りは三陸と同じリアス式海岸で、いくつもの入り江に抱かれており、ほっとするような美しい水の風景に満ちている。小浦という地名がふさわしい奥まった細長い小さな湾だった。海辺に小屋が立ち並び、そこで2、3人ずつの人がカキの山を前に座り込んで付着物を除く作業をしている。カンカンと金道具とカキの殻がぶつかる音が断続的に響く。周囲の水面には種付けされたアオサの養殖筏が浮かんでいる。

最初に話を聞いたのは家田武夫さん、1934年生まれの82歳。真珠の養殖に取り組んだのは、昭和25、6年から、武夫さんがよその真珠小屋に真珠養殖のノウハウを習いに行き、帰って集落の皆に伝えた。

「真珠はわしが一番早かった。うまくいったら一軒家が建つくらい景気もよかったから、みんなだーっとやりだしたわけさ。御木本が真円(真珠)を発明したわけやわ。それをわしらが真似したわけや、ははは。村中やっとったよ」

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武夫さんは、かなり本格的に真珠養殖に取り組んだ。真珠の貝掃除も機械化し、「真珠で家を建てた」一人だ。真珠の元になる核入れ(玉入れ)の作業は海女や女たちが行うことが多かったが、畔蛸では武夫さんが先駆となって教えた。これも玉入れした小屋やわ、冬になったらあったかいとこ移して、と傍らの小屋を指す。船でひっぱるのだろう、暖かい海を好む真珠のために移動可能だったようだ。

「核入れが一番肝心やね。小屋に机おいて、口のあいてきたやつから開けて、内臓の悪いとこをヘラでとって、硬いとこ切って(真珠液の出る外套膜を細かく切って利用する)、横に核(を置く)。大きさによって違うんだわ。貝が大きけりゃ大きい核入れる。小さかったら小さいやつ入れるわけさ。おかしなとこに入ってくときもあるんだわ、そんなん入れても貝が吐き出しちゃうんだわ」

貝の内部のどこに、核と外套膜をセットするか、その腕によって真珠の出来がほぼ決まる。慎重さを要する仕事だ。

「4月に入れて、12月に採集するでな、その間引き揚げて掃除して水圧で汚れをとったらまた海に放り込んで。カキの方はエライ(大変)。真珠の方がうんと楽。一度8ミリのあったわね、当時4万で売ってくれって。そやけど売らんで、京都の兄にあげた」

昭和30年のサラリーマンの月給が15000円程度だった。よい玉が出れば一粒でボーナスのような収入が手に入ったと言える。しかし、真珠が安くなってきたことや、真珠養殖の博打のような不安定要素を抱えることで、昭和40年あたりから真珠をやめ、アオサに替える人が増えた。

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「専門で大きくやってるの(人)はそれで生活しとるから安うなっても(続けるしか)しょうがないんや。でもこの辺は半農半漁だから」

御木本のように、養殖場をいくつも抱えていれば、一部の養殖場に赤潮の被害があっても、リスクは抑えられる。初期の成功するまでの幸吉も養殖場を分散することで、かろうじて身の破滅を免れた側面があった。しかし、農業片手間に小さな湾で行う者としては真珠は確かに博打であったかもしれない。天候などに左右されるという意味では目の前のカキも、今年は死んだ個体が多く大打撃だったという。

「7、8月に雨が降らんで、金んならんて専業のはみんな泣いとる。ここはアオサが主やで副業だが。雨が降ると、山の腐葉土が流れるからそれが栄養源になるんや。降らんといかんや。魚もいかんし」しかと目には見えないけれど、山と海が確かにつながっていること、その中で人間が生かされていることを海に生きる人々は、ずいぶん昔から知っていたのだろう。雨量が魚の味を左右するとは、想像もできなかった東京育ちの私は、その年によって違うという魚の味の違いを区別できるとも思えない。少雨による水質のアンバランスで死滅してしまうカキの命のはかなさ。プランクトンの増殖によって全滅する真珠貝のもろさ。そうした障害を越えようと編み出され改良されてきた養殖という伝統。幸吉が人生を懸けて達成した真珠養殖の技術は、戦争を経て小浦のような小さな湾の人々にも共有されてきた歴史があった。小浦では廃れたが、今なお真珠は志摩の特産として親しまれている。

ちなみに、現在この地域で主な収入源となっているアオサを、50年前に妹さんが住んでいた池の浦からここに持ってきて育て始めたのも家田さんだった。色んなことを最初にやられてきたんですね、と言うと、私が撮影用に持っていたiPadを見ながらこう言った。

「まあ色々せんと食っとかれへんや、あんたらみたいにそんなんもっとれば、生きてけるんならええさ。ハハハ」

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「真珠の方が大変さ。金のかかり方が違うてくる」と話してくれたのは、並びの別の小屋でご主人とカキ掃除の作業をしていた瀬崎美代子さん、1930年生まれの86歳。「金のかかり方が違う」という言葉から、家田さんのようには成功できず、大打撃を受けて借金を抱えた人々を美代子さんが身近に見ていただろうことをなんとなく感じる。ご主人が隣で「カキは食べるだけや、ハハハ」と笑う。二人の前に積まれたカキの山は大きく見えるが、すべて自分たちや親せきに配るためのもので、商売にはしていないという。自給自足といえば、畑仕事のイメージだが、カキの養殖はいうなれば海の畑か、と一人合点する。美代子さんは1959年ごろから真珠貝の掃除作業をやっていた。

「カキは一日くらいおいておいても大丈夫、真珠は半日くらいはいいけど、弱ってくると(玉の)巻きが悪くなるでな。真珠の掃除は船に乗っていってな、いかだの横で。毎月のように掃除して」

家田さんは真珠貝の掃除を機械化していたが、美代子さんの真珠貝掃除は船の上での手作業だった。今こうして話す間も片時も止まらない美代子さんの手。カキについた小さな貝やホヤを素早くかきおとす仕草はたぶん、真珠貝を掃除していた30代半ばの美代子さんの手の動きとつながっている。

「戦争のときはな、館山から水上機で兵隊さんが来てな、壕をほってな、民間に泊まってな。学生は勉強はあまりしなんだわ、勤労奉仕で。畑の麦踏行ったり、山に木をたきぎにしたのを運びに行ったりな。食べる物は作ってもきつかったわな、お米はとれても、『どんだけとれた、納めよ納めよ』って供出でな。海の物はあまりとりにいかなんだ、オカの方が大事でな」

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海と陸、二つのバランスの中で生きてきた小浦の人々の生活も、戦時の社会の中で畑中心、供出が基本という事態にぶつかっていた。同じころ、真珠もぜいたく品として銃後の日本社会から追放されつつあった。真珠生産を停止せざるを得なくなり、軍需産業へのシフトの可能性もあり得た中、幸吉は「真珠以外のことはやらない」と、戦争が終わるのをひたすら待った。会社存続のために見かねた部下が始めたのが、真珠のカルシウムを生かして製剤を作る製薬業で、これが現在の御木本製薬の始まりとなる。

幸吉の唯一の息子であった隆三は河上肇の助言でのめりこんだラスキン研究に没頭し、家業を継ぐことはなかった。幸吉については、「名誉心が強く、孤独な人」という隆三の評や、御木本が長期間借りていた養殖場の区画漁業権獲得でもめた立神村の人々に対し、真珠養殖など手を出さず「百姓や大工で世渡りするのが得策」と発言し傲慢さを露呈した一件(大林日出雄『御木本幸吉』吉川弘文館、1971年)、桂太郎の「大言壮語と自慢をとったら御木本には何も無くなる」という辛口評もあれば、昭和9年についた日本養殖真珠水産組合の組合長の職も周囲の風当たりが強くすぐにやめた(永井龍男『幸吉八方ころがし―真珠王・御木本幸吉の生涯』文藝春秋、1986年)という話もあり、いい評価ばかりではない。人徳はあるがお調子者のところもあり、機転が利くが人の鼻につくところもあっただろう。二宮尊徳のように教科書に載りたいと公言するなど、ミーハーなところも子どもっぽいが、それでも幸吉は全体として信用するに足る人物だったように思う。

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後の跡継ぎとなる孫の美隆が大学を出て多徳の養殖場で働き始めたころ祖父に「常識は大切です」と言ったところ、幸吉は軽蔑するような顔つきで言い返したという。

「こざかしい。常識なんていうものはただの人間の言うことだ。そんなものをありがたがっていては、普通の人間にさえなれない」

なかなか含蓄のある言葉だ。常識に縛られるな、という言葉はよく耳にする。発想の転換という言葉も同様だが、幸吉が言わんとすることは、どうももう少し広く深みがあるように思う。社会の常識というものは、時代の状況に大きく左右される。「普通の人間」であるためには、そうした時代や周囲に左右されない美意識や、普遍的な信念、人間性を自分の中に確立させることが大切である。逆にそれができなければ、「常識人」にはなれても、人間としての美点を忘れ、台無しにすることもあり得る。真珠の美しさを信じ、軍需産業にも与さなかった幸吉の人生から私はそんなメッセージを受け取る。

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出征する社員に幸吉は「絶対死ぬな。貝は戦争しとらん」と声をかけたという。「死ぬのがご奉公」という社会の建前をよそに、幸吉の本音は貝と共にあった。真珠養殖は商売であると同時に、自然の営みに耳をすまさなければできない仕事であった。若き日、海の命に寄り添い、死ぬまで志摩の自然を愛し続けた幸吉の言葉は、まっすぐ現実を見、自然と共に最後まで生ききろうとする者の言葉でもあった。小浦の家田さんから聞いた「色々せんと食っとかれへんや」という言葉もまた、同じような力強いリアリズムをたたえて、健康的な笑いと共に、今日もあの小屋の並ぶ志摩の小さな入り江に響いているはずだ。

クリエイターの紹介

寺尾 紗穂

音楽家/文筆家

1981年、東京生まれ。2007年、ピアノ弾き語りによるアルバム『御身』でメジャーデビュー。 CM、エッセイの分野でも活躍中。2014年11月公開の安藤桃子監督作品「0.5ミリ」(安藤サクラ主演)に主題歌を提供している。著書に『原発労働者』(講談社現代文庫)、『南洋と私』(リトルモア)などがある。
http://www.sahoterao.com

大森 克己

写真家

1963年 神戸市生まれ。1994年第9回キヤノン写真新世紀優秀賞受賞。国内外での写真展や写真集を通じて作品を発表している。主な写真集に『サルサ・ガムテープ』(リトルモア)、『encounter』(マッチアンドカンパニー)、『サナヨラ』(愛育社)、『すべては初めて起こる』(マッチアンドカンパニー)など。
http://www.instagram.com/explore/tags/ginzaspacetimewalk/

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