ミキモトと志摩の真珠 その1
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銀座時空散歩

ミキモトと志摩の真珠 その1

2016.10.21

文/寺尾 紗穂

写真/大森 克己

最初に生まれた子どもというのは、特別な思いで迎えるものだ。私も長女を26歳で産んだとき、裁縫など得意ではないのに何かしてやりたいと思って、妊娠中に刺繍の本を買ってきて、肌着にちょうちょを2羽縫い込んだことがある。

母が聞かせてくれた話によれば、長女の私が生まれてから、毎年誕生日にミキモトで真珠を買っていたという。おそらく母は私が成人するときには20個の真珠でネックレスでも作れるように、と考えていたのだろう。そのころはまだ若いサラリーマンだった父が支える家計は、毎年値上がりする真珠の負担には耐えられなかったと見え、その計画は途中で頓挫した。思えばバブルのころである。しかし、この計画は実現せずに、それでよかったのではないかと思う。人がしてくれたことよりも、しようとしてくれたことの方が響く、ということもある。ちょうど、美しいものの残り香をかぐような気持ちで、私は母からその笑い話になりそうな話を聞いたのである。

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5月にパラオに行ったとき、パラオ人ガイドが、日本統治時代に真珠の養殖場がありました、と海辺で説明してくれた。パラオを含むドイツ領だった南洋の島々は第一次世界大戦のドイツ敗戦に伴い、1922年国連からの委任統治という体裁で日本の実質的な植民地となった。パラオはフィリピンの東、サイパンの南に位置する。ミクロネシアを中心としたその島々は南洋群島と呼ばれ、沖縄や八丈島、そして日本各地から多くの移民が渡った。その翌年ミキモトの創業者御木本幸吉はパラオに真珠養殖場を開き、多数の研究者を現地に送っている。日本領となるとほぼ同時に、養殖場を開いたのは実業家としての幸吉の敏腕を示すものだろう。このときの幸吉はすでに65歳。47歳で世界初の真円真珠を完成させた幸吉は、真珠王の名を不動のものにした。真円真珠とは、現在のパールのイメージとなっている美しい球体の真珠だ。これは、貝内部に核とよばれるものを人工的に埋めてそこに真珠液がかかって次第に球状になるもので、天然真珠は、内部にたまたま入った小石や小さな生物を液で巻いていくため、不揃いで小さく、様々な形が生まれる。

幸吉がパラオで1923年早速とりかかった2万個の真円手術を施した貝は不成果に終わった。熱帯は生育が速く、日本でかかる半分の期間で成果が得られるという見込みだったが、日本で主流のアコヤ貝はパラオには適さなかったのかもしれない。後には、黒真珠を産む黒蝶貝養殖を主流にするが、1932年の1万個の手術も奏功せず、天候や潮にも影響されてしまう真珠養殖の難しさを物語っている。パラオで南洋の真珠を扱う会社はミキモト以外にも、南洋真珠、パラオ水産など複数あり、天然真珠を狙う者も多かった。1941年には内地でも岡晴夫が歌う「パラオ恋しや」の中に真珠とりのダイバーが歌われた。

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島へ来たなら ダイバー船へお乗り
 男冥利に 命をかけて 
 珊瑚林に 真珠とりするよ 
 ダイバーいとしの 鼻唄うとて
(「パラオ恋しや」岡晴夫)

命をかけて真珠とりとは、素潜りで深海からとってくるようなイメージが浮かぶが、パラオ養殖場を開いたスタッフ3名は三重の五ヶ所養殖場から派遣されており、五ヶ所ではすでに新しい養殖方法が取り入れられていた。従来の海底へばらまき、それを集める海女の潜水技術を利用した方法では、タコによる被害や海藻が貝の生育を妨げていたが、これを回避するために、海面に浮かべた養殖筏に活け籠をぶら下げる方法を編み出したのだ。これによって、貝を守り船上から大量の真珠貝を回収することが可能になった。1916年ごろから取り入れたこの改良によって安定した成果を確信した幸吉は1923年にパラオに養殖場を開くまでに新たに9カ所の養殖場を日本各地に開いている。少なくとも「御木本」ではは、船上で養殖筏にぶら下がった籠から大量の貝を集めて岸に戻っていたはずで「命」を懸けて海女のようにとってくる養殖法は終わっていた。

このパラオ養殖場の支配人をしていた小串次郎は、戦後1952年から石垣島の川平湾で黒蝶真珠の養殖に携わっているが、そのような経験者が知恵を授けても、本格的な量産が可能になったのは、60年代後半から70年代にかけてだった(琉球真珠株式会社HP参照)というから、デリケートな生き物である貝から生まれる真珠を安定した商品にするために、人々がそれぞれの海で繰り返しただろう試行錯誤がしのばれる。まさに、そうした真珠養殖の困難に世界で最初に直面し立ち向かったのが、御木本幸吉だった。

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幸吉は1858年、志摩国鳥羽町(現在の三重県鳥羽市)のうどん屋に生まれた。幼少から野菜の行商などを行い、20歳で家督も相続しているが、うどん屋に本腰を入れるつもりはなかったようで、22歳で町会議員になっている。幸吉と真珠との出会いは、成人して東京横浜見物に行った際に、地元ではなじみのある真珠が高値で売買されているのを目の当たりにしたことに始まる。しかし、当時は真珠の養殖という技術も観念も生まれていなかったため、志摩では真珠目当てのアコヤ貝の乱獲が行われていた。人間と真珠との歴史を眺めてみると、19世紀アメリカでアーカンサス川の淡水真珠を人々が争って採取し、貝を絶滅させてしまったパール・ラッシュの例もある(『真珠博物館 人と真珠 そのかかわりを考える』ミキモト真珠島、1985年)ほどで、ヨーロッパでは18世紀から養殖研究が行われてきたが、実用化できた者はいなかった。もしも近視眼的な考え方しかできなければ、志摩の真珠を金儲けのためにとりつくす側に加担していたかもしれないが、幸吉はすぐさま真珠貝の養殖の必要性を感じとった。頼りにしたのは同郷の柳楢悦。元海軍少将で、このときは大日本水産会幹事長だった。民藝運動で知られる柳宗悦は楢悦の三男にあたる。柳の紹介で動物学が専門の東京帝大教授の箕作佳吉の知己と助言を得て、人工真珠実現の可能性ありとの感触をつかむと、幸吉はさっそく養殖を始める。うどん屋を3人の子を抱える妻うめに託してのゼロからの出発、誰もやったことのない事業だった。

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1888年、幸吉は30歳。多くの失敗を経て、5年後に半円真珠が実現する。現在一般になっている球体ではなく、半円形でブローチなどに加工されることの多いタイプの真珠だ。開いてもまともな真珠はできておらず、赤潮による貝の全滅もあった。それでも場所を分散して養殖していた幸吉は残った貝の半分を再び全滅した海に入れた。財産をつぎこんで、なおも真珠に取り組む幸吉を周囲は「真珠きちがい」「山師」と陰口をたたいたが、幸吉は「わしは大海師や」と応じた。幸吉の理解者はうめ一人だった。念願の人工真珠ができた3年後に32歳で腹膜炎により他界するときも、「真珠もできたし子どもも5人、思い残すことはございません」と言ったと言われる。しかし、幸吉は半円真珠では満足しなかった。2歳から14歳までの5人の子どもを抱えながら、再婚はせず、真珠をつれあいと思って真円真珠を生み出すことが、幸吉のその後の人生の目標となる。幸吉は毎朝、子どもたちと近くの日和山に登って朝日を眺め、帰路は氏神の賀多神社に手を合わせたという。

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724年創建という賀多神社の拝殿には、黒白二頭の馬の絵が飾られていた。今年は午年だったかしらととっさにあいまいな記憶をたぐったが、後日神主に確認したところ、

「かなり古くから飾られているもので、20年ごとの遷座の度に描きなおしてもらっています。不思議なことですが、20年たつとどちらかの馬が消えると言われています」

とのことだった。幸吉が午年ゆえに馬を好んだというエピソードを思い出すが、ふと、毎朝ここで手を合わせた幸吉は、この賀多神社の二頭の馬に守護神のような特別な思いを抱き、神社への祈願をしていたのかもしれない、と思う。

鳥居を入って左手には、能舞台の写真入りの説明書きが立っていた。毎年4月に境内で市民による神能楽が行われるのだが、以前は毎年境内に組み立て式の能舞台を設置して奉納していた。

「23年ぶりに今年復活させたんです」

と神主さんが社務所で当日の写真を見せてくれた。今後毎年の開催は難しいかもしれないということで、演者となる市民を巻き込んでの復活には大変な労力と努力があったのではないかと思われた。世の中が明治に変わったころ、幼い日の幸吉もこの狂言の舞台に立った。名古屋からきていた狂言師野村又三郎についてひそかに練習をかさね、人々を驚かせたという。こうしたパフォーマンス精神は幸吉の人生のあちこちで見ることができる。野菜の行商をしていた青年期、鳥羽に碇泊していたイギリスの測量船シルバー号に首尾よく乗せてもらい商売できたのも、得意の足芸が船員にうけたためと言われる。実業家となってからも、粗悪真珠を神戸の町中で燃やすパフォーマンスをするなど、話題に事欠かなかった。 

 

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半円真珠を完成させた幸吉はうめの死後3年たった明治32年、銀座の裏通り、弥左衛門町に御木本真珠店を開く。店の作りはしもたや風で、店員も着物に前だれ、江戸情緒が残っていた。4年後には大通りに移転を果たし、やがて、実弟の斎藤信吉とうめの弟で宝石学を究めた久米武夫が欧米視察から帰るころには、ミキモトも西洋風の店舗となった。1907年の店構えを写真で確認すると、こじんまりとした二階建ての洋館である。娘のあいは次のように回想している。

 白い石造で「真珠色」の店といわれ、二階のヴェランダの擬宝珠(ギボーシ)が真丸い玉状に磨かれているのは、まえに申し上げた様に、真円真珠を造りだすために夢中で「何でも丸いものは好き」だった時代の父の好みによるものです。
(乙竹あい『父、御木本幸吉を語る』御木本グループ、1993年)

幸吉は瓦にも珠の文字を彫らせており、真円真珠にかける執念とも呼ぶべき思い入れがうかがえる。銀座店の店内もまた、異色を放った。
 
清雅な色彩の配合と、鏡の反射に依る光輝は、能くその商品の性質と一致して、涯り無き尊さを示しているのは、全店舗を全く眞珠化したものと見え、見るからに奥ゆかしく思われて、此店を銀座第一のものと称するに躊躇しないのである。
(「東京商店店飾評判記」『商業界』1910年6月)
 

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念願の「八方ころがし」と言われた真円真珠は、1905年完成した。このころから、御木本の養殖場には皇后などの皇族が訪れるようになっていく。幸吉は必ず、海から取りたての真珠貝から真珠をとりだして見せた。この時、幸吉を助けて実演するのは海女たちだった。すでに述べたように、初期の真珠養殖は、海底に一つ一つ貝をばらまく方式で、採取も海女たちが潜ってはとってくるスタイルだったのだ。やがて、養殖法の改良と共に、海女の役割も変化することになるが、志摩の女性たちと真珠との結びつきは今なお残っている。幸吉の始めた養殖法の広まりによって、志摩の人々がどのように真珠と関わることになったのか、生きた声を拾うべく、鳥羽を発ちさらに南へ向かった。(その2に続く)

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クリエイターの紹介

寺尾 紗穂

音楽家 / 文筆家

1981年、東京生まれ。2007年、ピアノ弾き語りによるアルバム『御身』でメジャーデビュー。 CM、エッセイの分野でも活躍中。2014年11月公開の安藤桃子監督作品「0.5ミリ」(安藤サクラ主演)に主題歌を提供している。著書に『原発労働者』(講談社現代文庫)、『南洋と私』(リトルモア)などがある。http://www.sahoterao.com

大森 克己

写真家

1963年 神戸市生まれ。1994年第9回キヤノン写真新世紀優秀賞受賞。国内外での写真展や写真集を通じて作品を発表している。主な写真集に『サルサ・ガムテープ』(リトルモア)、『encounter』(マッチアンドカンパニー)、『サナヨラ』(愛育社)、『すべては初めて起こる』(マッチアンドカンパニー)など。http://www.instagram.com/explore/tags/ginzaspacetimewalk/

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